コロナウィルスは資本主義脱却の序章。
今日も行きますか。
まとまらんかもしれませんが、とりあえずアウトプットします。
このブログの読者の皆様なら、なんとなく物はあるけどお金がしっかり分配されてないよねって話しは理解してると思います。
このコロナ不況で、一気に問題が表面に浮かび上がりました。
遅かれ、早かれ、経済が回らないと大変ってのは起きる事象でした。
庶民が同じ額で働き続ければ、技術は進んでるので権力側がじわじわと格差は拡がり儲けすぎるシステムでした。
オードリーの若林さんのエッセイで手酌の話しがありました。
オードリー若林が先輩芸人と飲みに行った際、手酌をしなかったことを怒られたそうです。
納得できなかった、若林は翌日、手酌の文化的背景について調べに図書館に行きました。
そこには、昔は上司と部下や男女での賃金の格差が大きかったので、上司がお金を出すかわりに、手酌だけでもという意味で手酌というものが生まれたそうです。
これを知った、若林は昨日の先輩とは割勘だから俺は間違いなかったと納得したそうです。
これは現代にも通じるものがあると思います。
普通に奢ってくれない上司、しかし、手酌や礼儀などは求めてくる。
先輩や上司にこれをするのは当たり前という美味しい文化だけを維持しようとする、しかし、不況もあってあまり奢らない、出し渋る。
きっと人間、無意識的に、いやそこまでやってもらってないしと思ってるのでしょう。
ようは無意識的に常識になって、そこを上手く使えば儲けることができます。
大学に行くのが当たり前という世の中になれば、大学側は儲かるでしょう。
社会人になるのが当たり前なら、会社は人集めにあまり困らなくなり安く労働者を使えるでしょう。
常識というのは、上に立つ側には、ある種、儲けを増やすトリックでもあると思うのです。
そんなトリックが今の世の中横行してます。
というより、基本はそのようなトリックばかりです。
しかし、裏を返せばそのようなトリックがまかり通るくらい、物が満たされてるということです。
物がなければ、学校に行く、ホワイトカラーのような社会人になるというよりも、もっと生きるためにダイレクトな仕事をしなければなりません。
物は溢れています、お金がないと終わるわけではありません。
分け合わないと終わるのです。
お金がないと終わるのでしょうか?
視点を変えないと終わるでしょう。
物事はシンプルです。
人間が食べれるだけの量が供給されてることに気づくべきです。
それでも、お金にこだわって生きてれば傷も深くなるでしょう。
量は十分にあることに気づけば傷は浅くなるでしょう。
まぁ、ベーシックインカム的なもの待ったなしです。
まぁぶっちゃけここまで早くこんな時代がくるとは思いませんでした。
おわり